家族に見守られ、畳の上で死ぬ幸せ

家族に見守られ、畳の上で死ぬ幸せ

一枚の写真がある。正装をした家族がベッドをぐるりと囲み微笑んでいる。幼稚園に通う孫は訳を知らずに、ただあどけない表情でレンズを見つめている。三世代、 14 名が集まった。長男は赤いネクタイをしめている。いつか、よく似合うと父から褒められたそれである。その日は孫のひとりの成人式だった。

「みんな正装して来てくれって、言いましてね。ちゃんとわかってたんやなあ・・・」

今も不思議な感覚が残るのか T さんは首をかしげる。家族写真を撮ろうと言い出したのは夫が亡くなる一週間前のことだ。普段着ではなく、晴の日の写真として身支度もきちんとしてほしいと夫はいう。家長の願いを叶えようと親族が集まり写真におさまった。それが最後の一枚となる。幸せそうな家族の肖像。  
ベッドから孫一人ひとりに声をかけていく。「頑張れよ。いつでもおじいちゃんは見といたるからな」
孫娘に「結婚式には出るつもりだから」そう話す祖父の言葉に、同居して祖父の容体を知る孫の目に涙があふれた。

安住の地

はじめは横、次に縦に暮らしている。次男夫婦との暮らし方のこと。大阪のマンションでは隣同士に、転居した新築の家では1階と2階にそれぞれ独立した空間を持ち暮らしている。適度な距離をとることは、生活様式が違う二世代がうまくやっていくコツだそうだ。
 
Y さんは大正 10年の生まれ。戦争を体験している。それが「気のしっかりした人」と妻がいう気質の土台ともなっていたのかもしれない。資本金ゼロからの出発。一代で会社を興した。今は息子たちが継いでいる。息子夫婦と暮らすこの家は、環境の良さを気に入って Y さんが選んだ。快適に暮らせるように様々な工夫も凝らした。なかでもリビングから見渡せる庭は自慢の庭である。 Y さんの好きな樹木を植え、燈篭を配し、池には鯉をはなした。構想を練り、一つひとつ吟味をして選びぬいた素材を揃え、丹精込めて作り上げていった。だから、庭に面した、明るく陽光の指すリビングに、でんと置かれた大きな座椅子はお気に入りの場所となる。そこで杉山先生と出会い、診察ははじまった。

不調の正体

食事が食べられない。好きだった酒もビール一缶を夫婦で分けて飲むだけ。酒量ががくんと減った。平成 19 年初秋のこと。食がすすまないのも暑さのせいにして、病院嫌いの Y さんはなかなか腰をあげようとしなかった。
 
10 月に入っても不調は続いた。家族のすすめに渋々応じ、近くの診療所で検査を受けると、告げられた病名は肝臓ガン だった。

「そうでっか」

医師からの告知にも Y さんは動じる風もない。本人を目の前に医師が告げたこと、 86 歳という年齢を考えても、進行もおそく急を要する事態ではないのではないかと家族も楽観していた。その頃、 Y さんの肩と足の付け根に5円玉大のおできがあった。中心が真っ黒、周囲が赤い。素人目に見てもそれが単なるおできとは違う感じがした、と妻 T さんはいう。診断から一ヵ月後、大阪にある入院先の病院で厳しい現実を知らされることになった。

病と闘わず、共に生きる

「手術もしんどいから、今さらやめときましょう。原発しているところもわからないし・・ガンとうまいことつきあっていきましょう」 高齢の Y さんのからだへの負担を考慮して医師は、言葉を選びそう Y さんに話した。
- うまいこと言わはるな - 妻 T さんは思った。夫も落ちついた様子で頷いている。相槌をうちながらも T さんの心中は複雑だった。2日前に夫の余命は3~6ヶ月であると聞いていたからだ。心労から T さんは頭がふらついた。 「はじめて体験しましたけど、(余命を)わかっている家族と知らないものとの、なんともいえない気持ち・・・。本人は知らんような顔してるけど、どこまでわかってるんやろう・・やっぱりアカン、と思ってて家族には言わずに頑張ってたかもしれない。本当のこころの中はわかりませんね。気丈な人やったから・・・」

治療の手立てもなく退院。便秘が続き背中の痛み、腹痛に加え、大きくなったおできのため夜も眠れない。負担の大きい大阪への通院をやめて、近くの病院で診察を受けることにした。初めて訪れた診察室で女医は、自宅に往診に来てくれる先生がいることを教えてくれた。そんなことができるなら、と夫婦で喜び、紹介してもらったのがひばりメディカルクリニックだった。その時、妻 T さんはそれが末期ガン患者を専門に診るクリニックとは思いもしなかった。

翌日、杉山先生が訪ねてきた。リビングの座椅子に座り、 Y さんはこれまでの経緯と痛みなどの症状を話した。先生は質問を交えながら、しっかりと話しを聞いてくれる。帰り際には「こんなありがたい先生と会えて、わしは嬉しいです」と Y さんは満足そうに握手をもとめた。その時、 Y さんのおできは不気味な様相のまま、500円玉大へと大きくなっていた。

がまんしたらだめ。

痛いときに、いつでもいいから電話して

次の日、たずねてきた看護師が言った。「何をしてほしいですか。何でも言ってくださいね」にこやかに声をかける。在宅ホスピスに熟練した看護師であることはその柔らかい物腰からも感じられた。 Y さんは便秘が続いて、不快であることを話した。彼女は笑顔で頷き、手際よく Y さんのお腹を温め、肛門を刺激して排便を済ませてくれた。その様子に家族は感激した。自宅まで来てくれて患者や家族の気持ちを読み取りながら、患者の望むことをし、決して無理強いはしない。こんな素晴らしい医療があるのか。 Y さんも家族も先生、看護師が来るのを心待ちにしていた。

だが、容態は少しずつ悪化していった。先生が帰った後に嘔吐を繰り返すこともあり、黒色の便がでた。「いつでも困ったら、夜中でも電話してきて。我慢したり、遠慮はしたらだめですよ」その言葉が家族の気持ちを軽くしてくれた。とはいえ、状況には変わりはない。これからどうなっていくのだろう。後どのくらい・・ほんとに最期まで家で看取れるのか。日々、弱っていく Y さんの姿に家族は不安を覚えながら、新年を迎えた。

旅立ちの準備

正月元旦、足元もおぼつかない Y さんだったが、たっての希望で、天王寺にある菩提寺へ初詣に出かけた。具合はしごく悪いが、お参りをすませた Y さんの顔には安堵の表情が浮かんだ。いつも休んでいたリビングの座椅子を離れ、介護ベッドへと移ったのはそれから一週間後のことだった。先生の見立ては「1月はもつが、2月は厳しいかもしれない」。

昼夜問わず、いっときも目をはなせない。 81 歳になる妻 T さんの疲労は限界を超えた。杉山先生に点滴をしてもらい横になった。

妻 T さんと共に、介護の中心的役割を果たしたのは N さん(同居する次男の妻)だ。夫や兄姉たちの助けを借りるものの、負担はやはり大きい。杉山先生に紹介してもらい、夜8時から翌朝8時まで手助けしてくれる家政婦をいれることにした。

明日は孫の成人式という日、久しぶりに家族が集まった。和やかな団欒を過ごした。と、そのとき Y さんが思いがけない提案をした。「家族で写真を撮ろう」

その1週間後、 Y さんは家族が集まった日曜日に眠るように息をひきとった。

幸せな出会いに感謝

「自宅で亡くなるいうのは、これだけ大きな意味があることやと思いました。私ひとりではできなかったでしょう。皆、親孝行でほんとに良くやってくれました」
そう話す妻 T さん、横で母を見守る N さん(同居する次男の妻)。ふたりの表情には一点の曇りもみえない。やれるだけのことは手を尽くしたという思いからか、どこか清々しささえ感じる。手にはあの家族写真がある。もし、入院をしていれば、これほど家族が密接にはなれなかっただろう。

「主人も納得して逝ってくれました。私たちも最後まで介護ができた。先生もちゃんとしてくださってほんとに嬉しい。この出会いに感謝しています。理想的でした」

父 Y さんをこの家で、母とともに看取ったことは、 N さん若夫婦にとっても大きな意味があった。この家で同居を決めたとき、 N さんの夫(次男)は、こう言ったそうだ。

「父が大好きなお仏壇の部屋で最期を看取ってあげたい。そしてこの部屋から送り出したい」
その願いが叶ったのだ。
今、自宅での看取りが叶うのは 20 人にひとり。 Y さんは幸せな終焉を迎えたひとりだった。